島の子ども、地域の子どもとして育つ【後編】映画『夕陽のあと』 越川道夫監督インタビュー

特別養子縁組をテーマにした映画『夕陽のあと』の越川道夫監督。後編では、社会で子どもを育てることとは、映画が表現すべきことは何か、語っていただきました。(前編はこちら

長島の明るく開放的な土地柄

子どもにはたくさんの親がいる“島の子ども”という表現もありました。

僕は浜松の駅前商店街の生まれなのですが、親が忙しくても、忙しくなくても、街の人たちがよってたかって、みんなで育ててくれたという記憶があります。野良犬だけど野良犬じゃない、みんなで飼っている犬がいたり(笑)。街の子どもたちは、その街の子ども、共同体の子どもとして存在していました。僕も自分は商店街の子どもだと思っています。それをノスタルジーだといわれれば、確かに、僕のノスタルジーはあの時の商店街の風景の中にあるのかもしれません。

しかし、大型店が進出し、その後のバブルの崩壊と共に、駅前商店街は消滅していきました。ふと、「あの街で生きていた人たちは、どこに行ってしまったのだろう」と思うことがあります。具体的な居所は親父に聞けば分かるのかもしれませんが、町の人々は根っこを切られてどこかに流浪してしまった、というイメージを拭うことができません。

そして、社会のしくみが変わっていくなかで、各家庭にカギをかけるような排他的な状況にならざるを得ませんでした。僕も2011年以降、東京で子育てをしていますが、都会での子育てはやはり大変です。外に出て電車に乗るだけで一苦労です。電車の中で静かにしていないと、非難めいた視線が注がれてしまう。僕らもしんどいですけど、子ども自身もしんどいだろうな、と思うことがあります。自分たちに向けられる非難の視線や声を彼らも感じているはずですから。

だからといって、昔は良かったということをノスタルジックに描いたのでは、それは単なる夢物語にしかならない。『夕陽のあと』では、夢物語ではなく、この時代に大人たちが子どもをどう見守っていけるのか、ということを描こうと思いました。それは社会的養育という言葉に置き換わるのかもしれません。

長島のような土地柄だからこそ、特別養子縁組という制度を描きつつ、子どもたちを地域でどう育てていくか、という社会的養育のテーマが絡み合って存在することを描くことができると思いました。

ノスタルジーではなく、共同体が現存しているということでしょうか。

山田真歩さんも言っていましたが、長島には人と人の心の間にカギをかけないあり方が残っていて、明るく開放的です。心にカギもかけていなければ、玄関にもカギがかかっていません(笑)。そして酒を呑むほどに、もっと明るくなります。映画の中にもありますが誰かの家に集まって長机を出した座敷で呑むわけですが、その周りを子どもたちが走り回っても、「静かにしなさい」なんて誰も叱ったりしません。

高等学校もない小さな集落ですが、出生率は2.06人(2016年)と高く、子どもたちの姿も多いです。数家族集まると、もう誰が誰の子どもなのか分からなくなるくらい。可愛がるにしても叱るにしても、分け隔てがないのです。

産業は養殖漁業が盛んで、ブリの養殖は日本一を誇り、ジャガイモ生産地としても成功していますし、ハイテクなIT機器の工場もあります。IターンやUターンで島に来る方も増えています。

こうした現在の長島を歩き、お話を聞いてから撮影に臨みましたが、島の姿やエピソードに関して、解釈をしすぎないで映画の物語に入れることを心がけました。物語のパーツにしてしまってはいけないと。こちらが作る物語に合わせた解釈をしすぎると、生きている人間がそこに居なくなってしまいますから。

人間は愚かである、でも世界は美しい

―ふたりの母が交錯しているときも、島の人々が包み込んでいましたね。祖母の存在も印象的でした。

女たちのあり方のなかに、島が体現されるというところを描こうするとき、そこに祖母の存在があります。木内みどりさんが演じた祖母ミエは、五月の将来像であり、映画の中で島を象徴する存在でもあります。

祖母、日野ミエ役の木内みどりさん ©2019長島大陸映画実行委員会

その土地が、街が、風土が、人を育てていきます。長島であれ、東京であれ、そこで生きている人々のあり方が、子どもに対する態度も決めていると思います。祖母が子どものことを「預かりものだ」という。この言葉は、鹿児島の児相職員からお聞きした「子どものことは子ども自身が決める」という言葉とつながってくるものです。僕自身もひとりの親として、そう思っています。それを、実感を持った生活者の言葉として、祖母が発することに重みがある。

現実の嫌なニュースが次から次へと流れてくるなかで、映画は何を描くべきなのか、といつも思い巡らせます。社会のなかには暴力的なものが存在するのも現実です。それが噴出するギリギリのところに来てしまっている気がします。

日本ではある時期まで経済的な好調によって支えられてきました。しかし、今となっては、報われない思いを持てあまし、周囲に対して攻撃的になっている人が増えています。史実を都合よくフィクション化して、その大きな物語やヒーローに同化して自分を癒そうとするような感じもあります。戦前もそうだったのかもしれませんが。

だからといって、映画で極端な負の世界、例えば連続殺人事件のようなものを撮るのは僕のやり方ではない。それを超えた何かを描いていく必要があると思っています。

©2019長島大陸映画実行委員会

僕は「人間が好き」というタイプではないんですよ。人間というものはロクなことをしないと思っています。生きとし生ける世界からしたら、人間は「何しやがるんだ」という存在です。しかし、僕も含めて人間という生き物の愚かさを認めたうえで、諦めるのではなく、自分たちが存在していることがどういうことなのかを考えなければなりません。

映画で表現をすることに意味があるのは、「人間は愚かである、けれども世界は美しい」ということを描くことなのだと思います。例えば宮崎駿監督が作品を通して描いているのは、まさしく人間の愚かさと世界の美しさです。改めて宮崎監督はすごいなと思いますが、アニメという子どもと向き合うメディアに関わってきた彼が、豊かに児童文学を吸収していることと無関係ではないと思います。

映画の表現は弱者の側にいるべき

―特別養子縁組が推し進められる一方で、茜のような女性たちのことを考えないわけにはいきません。映画では生みの母親が陥らざるを得なかった状況の描写もあります。

巷のニュースに反応して、加害者と思しき人を裁いたり、弱い者がさらに弱い者を叩いたりするような言葉があふれるなかで、文学や映画における表現や言葉は、そうしたものと対極にあるべきで、やはり弱者の側にいることが大事だと思います。

僕は特別養子縁組や社会的養護、困難を抱えた女性の問題についての当事者ではないけれど、当事者ではないからといって、無関係な問題ではありません。ひとりの大人としてものを考え、僕はたまたま映画を作る人間なので、その仕事のなかで社会と関係していくわけです。

そもそも、この年齢まで生きたら、子どもたちのこと以外に考えることはありますか? アメリカの先住民族は、自分たちの7代先のことを考えるそうです。動物のDNAには、種を超えて幼いものを可愛がるということが組み込まれているということを読んだことがありますが、人間はもしかしたら生物としてのそういう能力が衰えてきているのかもしれません。

この作品の成り立ちからして、地域の力を感じることができます。

商業ベースの作品の場合、どうしてもエキセントリックな表現に走ってしまう傾向はあります。物語の舞台となる自治体の主導で製作する企画だからこそできることがあると考えています。

今回、児童相談所の方とつながりができ、社会的養護のこと、居所不明児童のことなど、子どもの問題はいくつもあることを再認識しました。これは現代の家族の問題の縮図でもありますが、こうした状況があることに映画界が反応できていないと感じています。よい原作があれば、またチャレンジできればと思います。

長島での試写会では、約800人の方に観ていただき、そのうち80%ほどの人から「また撮ってほしい」というお声をいただきました。映画館の無い島ですが、ホールを改修して映画上映ができるような場づくりに予算がつく方向にも動いているとのことです。

自治体との映画作りは、映画業界にとっても大切に育てていきたいしくみです。映画を作ることが文化行政に影響していって、足並みがそろっていったら、お互いが豊かになると思うのです。(了)

前編はこちら

撮影協力 コクテイル書房:http://koenji-cocktail.info/

(作品情報)
『夕陽のあと』
監督:越川道夫(『海辺の生と死』)
出演:貫地谷しほり 山田真歩/永井大 川口覚 松原豊和/木内みどり
脚本:嶋田うれ葉
音楽:宇波拓
企画・原案:舩橋淳プロデューサー:橋本佳子
長島町プロデュース:小楠雄士
撮影監督:戸田義久
同時録音:森英司 音響:菊池信之
編集:菊井貴繁 助監督:近藤有希
製作:長島大陸映画実行委員会
制作:ドキュメンタリージャパン
配給:コピアポア・フィルム

2019年 日本
公式URL:yuhinoato.com

取材・エンライト編集部 文・林口ユキ 写真・長谷川美祈