どちらが本当の親か、という結末を超えて【前編】映画『夕陽のあと』 越川道夫監督インタビュー

鹿児島県長島町の豊かな自然、温かい人々の暮らしの描写から始まる『夕陽のあと』。特別養子縁組の申請を控えた夫婦に、産みの親のある情報がもたらされるところから、物語は急展開します。生みの親と育ての親である2人の女性を中心に織りなす人間ドラマでありながら、「主役となるのは子ども」という越川道夫監督に、エンライト編集部がお話をお聞きしました。(後編はこちら

 

生みの親と育ての親との葛藤を描く物語

―本作は自治体主導で立ちあがった企画だそうですね。監督としてオファーを受けたときのことをお聞かせください。

越川道夫監督:僕も54歳まで人間をやってきて、2児の父となりました。「子ども」については、この社会に生きる一人の大人として、あたり前のレベルで考え続けてきたと思います。これまで携わってきた作品の中には『楽隊のうさぎ』を始め、子どもが登場する映画も多くありますが、僕が映画で何を描きたいのかと問われたら、「子どもと動物」なのかもしれないと思っています。

それは3.11の東日本大震災以降の社会を生きていく子どもたちや被災地に置き去りにされる動物たちのことです。何がほんとうなのか判らない放射能の実態を考える中、いまこのような世界で、大人のエゴイスティックな世界を描くことはできないと思っているからかもしれません。

長島からオファーを受けたこの企画ですが、基本的なプロットライン(物語の筋)は用意されていましたし、キャストもほとんど決まっていました。

しかし、最初にいただいたプロットに少し違和感があり「僕はこのままでは撮れない」と思いました。それは、プロットに登場人物である生みの親と育ての親のどちらが本当の親であるかを問う、どちらが本当の親かという結末で書かれていたからです。

どちらが本当の親か、ということをテーマにした物語はこれまでも古今東西にいくつもあります。例えば、子どもの両手を両方から引っ張り、その子が「痛い」と言ったときにすぐ手を離した方が本当の親だ、という「大岡政談」。ブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」などもそうです。これまでのドラマや映画は、こうした二項対立の問題のあり方から出ていないものが多いという気がします。それではだめなのではないか、『夕陽のあと』では、その問題から一歩踏み出すにはどうすればいいのかということを考えました。

「どちらが本当の親か」という問題は、子どもが主体であることを度外視した、親のエゴイスティックな問題であると思います。親のエゴイズムを中心にした物語は撮りたくなかった。従来的な物語のあり方をひっくり返して、子どもを主体の視点から描いていかなければ何も描いた事にならないと思いました。

ですから、当初のプロットラインを生かしながら、それを違う結論に導いていくにはどうしたらいいか。脚本家の嶋田うれ葉さんと相談しながら作業を進めていきました。

子どものことは、子ども自身が決める

特別養子縁組制度に関して、映画を撮るために改めて取材等はなさいましたか?

僕自身、これまでの人生のある時期に「血縁のある子どもを持たずに里親になる」ということを考えたことがありました。具体的に何か行動を起こしたわけではありません。今回の作品を撮るために、特別養子縁組制度については改めて資料や関連図書に目を通しました。なかでも、実際に鹿児島の児童相談所の職員の方からお話をお聞きできたことは、社会的養育や子どもの幸せとは何か、ということを考えていくうえで大きかったです。

児童相談所の方のお話で最も印象に残ったのは、「最終的に子どものことは子ども自身が決める」という言葉です。彼は確信を持ってそう言いました。大人のエゴイズムで決めてはいけないのだと。もちろん、その子ども自身が決めていけるように支援をする必要はあるのですが。

児童文学作家であるケストナーの『ふたりのロッテ』という作品のなかに「世間には、両親が別れたために不幸な子どもがたくさんいる。しかし、両親が別れないために不幸な子どもも、同じだけいるのだ」という言葉があります。子どもにとっての幸せは、大人が思っているような枠にはめることはできないのだと思います。

それは、社会的養護の文脈における「家庭で育つか、施設で育つか」ということにおいても同様なのではないでしょうか。特別養子縁組のような家庭で育つことであれ、いったん家庭環境を離れて暮らすことであれケースバイケースで、その子どもにとっての幸せが選択されるのなら、どちらも僕は否定する必要はないと思っています。

何よりもこれからを生きる子どもに対して、これまでを生きてきた大人が、どのように責任を持ち、どのような世界を残していけるかということ、大人たちが子どもという存在に対してどういう責任を取っていくか考えたうえで行動することが、もっとも大切なことだと思っています。

子どもの存在をどう祝福していくか

茜(生みの親)と五月(育ての親)の葛藤、そして最後に分かち合えた場面の描き方は感動的でした。

この作品は、子どもの物語であり、特別養子縁組で母親になろうとする五月と、子どもを置き去りにせざるを得なくなったものの、親権を取り戻そうとする茜を中心にした、女たちの物語です。女性を描くにあたっては、僕の妻を含めた、30歳代~40歳代の母親の姿を身近でみてきましたので、彼女たちが日々の暮らしの中で抱えている思いを、登場人物たちに反映させています。

ふたりの親たちはそれぞれに子どもに対して愛情を持っています。現実には法律的にジャッジしなくてはならないのかもしれませんが、どちらがほんとうの親かと詮索してもその結論は容易ではないと思います。

生みの親・佐藤茜役の貫地谷しほりさん ©2019長島大陸映画実行委員会

育ての親・日野五月役の山田真歩さん ©2019長島大陸映画実行委員会

ひとりの子供が生きていて、ふたりの母親がそれぞれの愛情を持っている。その子どもの存在をどう祝福していくことができるかを考えていました。

一度起きてしまったことは取り消すことができません。「一度失敗した者にチャンスはないのか」というセリフがありますが、子どもとふたりの母親のこれからの時間を肯定したいと考えたのです。

『夕陽のあと』での僕の考えは若干、理想主義的かもしれません。しかし、その理想がなければ、単にポピュリズムに陥ってしまいます。悲しいことは世の中に、僕たちの側にいくらでも転がっています。だからこそ、表現は悲しみからもう一歩踏み込まないといけない。たとえそれが、理想主義に見えたとしても。映画は人間が生きていくうえでの真実に一歩踏み込まなければ何も描いた事にならないと思うのです。簡単にポピュリズムに陥ってはいけないと考えています。

越川監督が描こうとされる「子ども」の源泉はどこにありますか?

小さい頃から、児童文学のフィールドの本を好んで読んでいました。先ほどのケストナーのような海外文学もそうですし、日本では今江祥智や川島誠、岩瀬成子のような、僕の叔父くらいの世代が書き手である児童文学の世界に深く親しみましたし、今もよく読み返します。

越川監督の愛読書 「今江祥智の本 第22巻 児童文学の時間です」理論社

僕自身の家族関係がどうであったか、という経験的な基盤にも立脚しているとは思いますが、それ以上に、児童文学の世界から子どもについて考えてきたように思います。

そのひとつが、「あなたの人生は誰のものですか」という問いに対しての答えです。人生は、その人自身のものです。であれば、子どもの人生もその子どもの人生であって、親が私物化できるものではありません。分かってはいても、僕も含め親は子供への愛情ゆえになかなかそうできないものです。

しかし、子どもの人生は、やはり子供のものなのです。彼らが自分で決めていかなければならないし、親があれこれできるものでもない。したがってこの映画の結末も、それに沿ったものとなりました。生みの親と育ての親の思いが交錯する物語ではありますが、最後は子どもで終わらなくてはいけない。この映画の主役は誰かといったら、最終的には豊和(とわ)という子どもだと思うのです。

後編へつづく

少年・豊和(とわ)君は長島町内にておこなわれたオーディションを経て映画初出演 ©2019長島大陸映画実行委員会

撮影協力 コクテイル書房:http://koenji-cocktail.info/

(作品情報)
『夕陽のあと』
監督:越川道夫(『海辺の生と死』)
出演:貫地谷しほり 山田真歩/永井大 川口覚 松原豊和/木内みどり
脚本:嶋田うれ葉
音楽:宇波拓
企画・原案:舩橋淳プロデューサー:橋本佳子
長島町プロデュース:小楠雄士
撮影監督:戸田義久
同時録音:森英司 音響:菊池信之
編集:菊井貴繁 助監督:近藤有希
製作:長島大陸映画実行委員会
制作:ドキュメンタリージャパン
配給:コピアポア・フィルム

2019年 日本
公式URL:yuhinoato.com

取材・エンライト編集部 文・林口ユキ 写真・長谷川美祈