養子として育って不幸だったことはない【前編】『おいしい家族』ふくだももこ監督インタビュー

第40回すばる文学賞佳作を受賞し、9月20日公開の映画、『おいしい家族』で長編デビューしたふくだももこ監督。若干28歳で、映像と文学の両フィールドにおいて、その才能を如何なく発揮している期待の作家です。ふくだ監督は生後4カ月のときに乳児院から特別養子縁組で家庭に迎えらえました。「養子として育って不幸だったことはない」と力強く言い切るふくだ監督に、特別養子縁組家族で育った生い立ちのこと、そして映画のなかでも表現される「家族像」について、お話をお聞きしました。

捨て子やない、もらわれ子や

―お母様から小さい頃のお写真をお借りしました。

ふくだももこ監督:小さい頃はおそろしくかわいい(笑)。

父の実家も、母の実家も、島なんですよ。小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんたちと島で過ごしていたから、島に流れる独特の時間の流れが記憶にあったんです。『おいしい家族』では、私のユートピアを描きたかったから、その世界観を表す島を舞台にしようと思いました。

歩き始めた頃。 (お母様ご提供)

夏休みは従兄弟たちと島ですごしていた。(お母様ご提供)

―歴史のある養子縁組あっせん団体、家庭養護促進協会の「あなたの愛の手を」運動で、毎日新聞に掲載されていたそうですね。

生後1カ月で新聞に載った私を見て、「かわいい!」と思った両親が、私をうちに連れてきてくれた。そう認識しています。家に来たのは生後4カ月だそうです。同じく養子の兄と育ちました。

物心ついた頃は、保育園生活を“超”楽しんでいました。その頃から少しずつ、私が養子であることを両親はそれとなく伝えていたようです。でも、私の記憶の中では、小学校1年生のときに初めて聞いた気がします。それまでも知っていたけど、養子という概念を少し理解できたのがその歳だったんだと思います。

「桃ちゃんは、お母さんのお腹の中から生まれた子どもではないんだよ」

「へー」と。
完璧に理解できたわけじゃないけど、誰か違う人が産んだんやなと、言わんとする意味はなんとなくわかりました。

「でも今はお母さんの子やろ?」「じゃあ、産んだ人はどこにおんの?」

そんなことを思ったのか、口に出したのかあいまいですが、そのときに見せてもらった毎日新聞の記事のことは覚えています。新聞には「きょうこ」という仮名で掲載されていたので、「え、私きょうこなん? えー⁈」と、その名前のことで家族とワイワイ話した覚えがあります。

母からは、育てたいと申し出てもすぐにお家に連れて帰れるわけではなかったこと、乳児院に何回も会いに行ったことを話してもらいました。ショックではなかったですね。「じゃあ、本当の家族やないの?」とも思わなかった。ここが家族だから。

「私は、そうなんや」と、言われたことのありのままを受け止めました。

翌日、私は親に聞いたこの話を、学校で言いふらしたそうです。それを聞いた子に「じゃあ、桃ちゃんって捨て子ってこと?」と言われたらしく、それに対して「捨て子ちゃうし、もわられ子やし!」と返したそうです。

子どもながらに、しっかり線引きあったんです。家に帰ってそのことをすぐ母に話したらしく、感動した母は「桃子はすごい!」と言って泣いたそうです。

そのときは「私はどうやらみんなと違うらしい」という、面白いことを見つけたという感覚もありました。それを聞いたからといって、生活や環境が変わるという心配もないし、私の態度が変わることもありませんでした。

もう事実は知っているし、それを誰かに何とかして欲しいとは思わなかった。親に遠慮したつもりもなかったです。ただ、いつも自分の心と会話していました。それを変換してアウトプットする。それが物語を作ることだったり、絵を描くことだったり。当時は漫画家になる気で意気込んでいました。そういう方向に転換することで、精神の安定を保っていたのではなかろうか、とも思います。

だた、兄は私と反対に親に対する葛藤があったようです。なので、家庭内ではいろいろなことはありました。小学生の高学年だったか、母が一時家を出ていったんです。「私はどないしたらいいの?」と途方にくれました。

でも母はほどなく家に電話をかけてきました。
「お母さん、どこにおんの」「ホテルにいる」「はよ帰ってきてや」。

そしたらすぐに帰ってきてくれて。母は1カ月くらい家にいなかった気がしたけれど、実際は4日目には戻ったそうで。子どもが感じる時間の感覚は長いなあと思います。

そんな事件もありましたが、親との関係のなかでは、血縁がないからといって特別困ることもなく、これまで不幸だと思ったことは一度もないんですよ。

何でもできる、何にでもなれる

―思春期に入って変化したことは?

中学生になると、思春期特有の悶々とした気持ちはあったけど、発散の場も自分で作っていましたね。教室の机に流行りのうたの歌詞とかビッチリ書いたり、後ろの黒板も歌詞や詩で埋め尽くしたり。クラスでは「後ろの黒板は福田のもんや」ということになっていて、たまに「私もなんか描いていい?」と許可取りにくる子がいたりして(笑)。

「血、とは?」ということを考えることもありました。テレビドラマなんかで、血のつながりに重きを置くような親子愛ストーリーがありますよね。そういうのを観ていると、「へー、これが世の中の人の考え方なんや……」ということがわかり、「違う人はどうしたらいいですかね?」と疑問符が浮かんでくる。

確かに、血縁がある方がすんなりいくことは多いけど、周囲の親子を見ていると、血がつながっていることでしんどい思いしている人もいました。血縁者同士の方が、相手を受け入れられないときに、自分を保っていられなくなることも多いのでは、とも思います。追い込まれたとき、気を楽に持てないかもしれない。

例えば、親から子への期待。「自分の血を引いているんだから、お前はできて当然だろう」と思ってしまって親子関係が悪くなることも少なくないわけです。

私の場合、この両親から育ててもらっているけれど、自分の向き不向きやどんな才能があるかは、親を見て判断するようなものではないわけです。そういうお仕着せがないことで、救われた気がしたことはありました。

「立派な親のようにはなれない」と卑屈になったり、逆に「親がこうだから自分もこの程度だ」と諦めたりするような、そんな制限はないから、無限に自分のことを創造できる。だから「何でもできる、何にでもなれる」と思いましたね。

マイノリティであることがプラスに

―学校で困ったことはありましたか?

困ったことはありませんが、血を意識する出来事はありました。それは、そのものずばりの血液型のことです。私は長いこと血液型を知らなかった。「調べてないよ」と親から言われていましたから。

中学校の理科の授業で、両親のこの組み合わせでは、この血液型の子は産まれないという遺伝について習いますよね。先生は当たり前に「この親から、この血液型は産まれません」と言った後で、「みんなはこんなことないと思うけど」とか、一言つけ足すわけですよ。でも「そのありえない組み合わせやったらどうしようか」とこちらは不安に思うわけです。

友達とも血液型の話で盛り上がる年頃ですよね。私はまだ調べていないと言ったら「ぜったいABや」とかいろいろ言われたけど、結局は調べたら親からは生まれない血液型でした。それまで「血のつながり」は、単なるイメージで、モノクロでしたが、「血」というものに、はっきりと色がついた気はしました。

血液型の話の流れから、友達にも自分が養子だと言ったんです。中1くらいだから、みんなまだ子どもだし、どう言ったらいいかわからないからちょっと引く、という空気はありましたね。

中学を出て高校生くらいになると、養子であることが、今の言葉でいう“マイノリティ”であるという意識が生まれました。私にとってそれはマイナスではなく、どちらかというとプラスに作用したかな。友達に自分の生い立ちを話すと、その子が私に気を許してくれることに気づいた。お互いの距離感が縮まるんです。

それは今でもありますね。まだ少し距離がある友人が、「私はみんなと国籍ちがうんだよね」と、隠してないけど他の人にはあえて言わないことを私には言ってくれたり。

「桃ちゃんが養子だと聞いたとき、それについて何も(悪く)思っていないし、自分の国籍のことも嫌だと思っていないけれど、桃ちゃんになら話してもいいかな、と思った」と言ってくれたんですよね。

その人が私にふだん言いにくいことも言えたり、話すことで重荷が降りたりするなら、それはいいことなのかな、と思います。

後編へつづく

(作品情報)
『おいしい家族』 公式サイト https://oishii-movie.jp/
監督・脚本 ふくだももこ
音楽    本多俊之
出演    松本穂香 板尾創路 浜野謙太 他
配給    日活株式会社
上映    全国公開中

©︎2019「おいしい家族」製作委員会

取材・文 林口ユキ 写真・長谷川美祈