- 2025年08月10日
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軍に引き裂かれたブラジル人家族の物語映画の中の子ども・家族Vol.55『アイム・スティル・ヒア』 文/水谷美紀

軍事独裁政権下時代のブラジル。最愛の夫が強制連行されたきり消息を絶ち、幸せだった家族の暮らしは一変する。妻は5人の子供と残され──。『映画の中の子ども・家族』Vol.55は、ブラジルの映画史を塗り替えた話題の新作『アイム・スティル・ヒア』を紹介します。
『セントラル・ステーション』監督の最新作

©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma
『セントラル・ステーション』(1998)や『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004)などで知られる名匠ウォルター・サレス。長編映画としては16年ぶりとなる本作は、監督の祖国ブラジルで軍事独裁政権下に起こった元連邦議員ルーベンス・パイヴァの失踪事件を、妻エウニセの視点から描いた実話に基づく作品だ。
舞台は1970年のリオデジェネイロ。1964年のクーデターによって軍事独裁政権下となったブラジル国内は、少しずつそれまでの自由闊達な空気が失われつつあった。ビーチが目の前にある美しい家に住み、穏やかで幸せな生活を営んでいたパイヴァ一家も例外ではなかった。政権交代前は連邦議員だったルーベンスは罷免され土木技師に転身していたが、スイス大使誘拐事件を機に軍による市民への抑圧は一層ひどくなり、不安を募らせるようになる。
そんなある日、ルーベンスは突然連行され、そのまま消息を絶ってしまう。自身も厳しい尋問を受けたエウニセはなんとか解放されるが、5人の子を抱え、最愛の夫であり一家の稼ぎ手であったルーベンスがいなくなったことで苦境に立たされる。だがエウニセは子供達と力を合わせて絶望から這い上がり、夫が軍に拘束・逮捕された事実を実証しようと動き出す。
政権交代の重みを現代に伝える意味

©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma
主役のエウニセを演じたのは、サレス作品の常連で文化人としても知られるフェルナンダ・トーレス。そして老年期のエウニセ役には実母であり『セントラル・ステーション』でブラジル人初のアカデミー主演女優賞候補となったフェルナンダ・モンテネグロを起用。事件から40年にわたるエウニセの人生を、母娘ふたりで演じきった。
子どもの頃からパイヴァ家と親交があったという監督の特別な想いも込められた本作は、第81回ヴェネツィア国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞。第82回ゴールデングローブ賞ではフェルナンダ・トーレスがブラジル人女優として初の主演女優賞に輝いている。また第97回アカデミー賞ではブラジル映画史上初となる作品賞を含む3部門にノミネートされ、国際長編映画賞を受賞。ブラジル国内では2024年に公開されるや社会現象と呼ばれるほどのヒット作となり、観客動員数400万人を突破。ブラジル以外の国々でも本国と変わらぬ熱量で絶賛されている。
ルーベンスがリオで消えた6年後の1976年、ツアー中だったブラジル人の名ピアニスト、テノーリオ・ジュニオルがやはり軍事独裁政権下のアルゼンチンで失踪した。その事件をアニメ化したドキュメンタリーの名作『ボサノヴァ〜撃たれたピアニスト』(2023)が日本でも今春に公開され、大きな話題になったことは記憶に新しい。
偶然とはいえこの二つの作品が立て続けに公開されたことは、ひとつの大きなメッセージととらえることもできるだろう。政権が交代することで昨日までの平和や幸せが簡単に消えてしまう恐怖は、昨今の世界情勢、そして自国を見れば、過去の話でもなければ他人事でもないことがわかる。我々は現在、再び際どい局面に立たされていることを、本作を通して認識させられる。
再現されたブラジル中産階級の暮らし
軍事独裁政権下のブラジルが舞台である本作は一貫してシリアスな作品だ。その一方で、1970年当時のブラジル中産階級の暮らしをリアルに再現している点も大きな魅力であり、映画に説得力と厚み、そして楽しみももたらしている。
イパネマのビーチが目の前という最高のロケーションに立つパイヴァ家の開放的な邸宅に、いかにも当時らしいインテリアと生活スタイル。その家とビーチを水着や裸足で行き来する日に焼けた子供たちの笑顔は、往時の幸福な風景を追体験させてくれる。時代考証を綿密におこなったエウニセのファッションは大きく三つの年代に分かれる彼女の変遷を巧みに表現しており、アクセサリーなど細部への繊細なこだわりには思わず心打たれる。
現在も世界的なミュージシャンとして絶大な人気を誇り、当時はロンドンに亡命していたカエターノ・ヴェローゾのレコードと、イギリスのプログレッシブ・ロックバンドであるキング・クリムゾンのレコードを軍の人間が見つけて手に取るシーン、ロンドンにいる長女がやはり亡命中の“ある”スターに遭遇する話、シャルロット・ゲンズブールとジェーン・バーキンが歌う『ジュ・テーム』のレコードを流しながら子供たちがダンスに興じるシーンには、音楽好き・映画好きは思わず頬がゆるむだろう(そんな娘たちの部屋には“あの”フランス映画のポスターが!)
ブラジルのポピュラー音楽に欧米のロックの要素を融合させ、規制の価値観に挑戦する革新的な表現として当時最先端だった『トロピカリズモ』(トロピカリア運動)。その生みの親のひとりであるトン・ゼーやカエターノ、ガル・コスタにチン・マイアなど時代背景に合致した魅力的な選曲も抜かりない。多層的に味わえる今夏必見の一作だ。
<作品情報>
『アイム・スティル・ヒア』
8 月 8 日(金)ロードショー
【CAST&STAFF】
監督:ウォルター・サレス
脚本:ムリロ・ハウザー、エイトール・ロレガ
出演:フェルナンダ・トーレス、セルトン・メロ、フェルナンダ・モンテネグロ 音楽:ウォーレン・エリス|撮影:アドリアン・テイジド|2024 年|ブラジル、フランス|137 分
©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma
公式 H P:https://klockworx.com/movies/imstillhere/