- 2025年02月22日
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苦しみを分かち合う、大人の愛の物語映画の中の子ども・家族Vol.52『あの歌を憶えている』文・水谷美紀

忘れたい記憶を抱えて生きるシルヴィアと、忘れたくない記憶を失っていくソール。それぞれに過酷な運命を与えられたふたりが出会い、惹かれ合っていく。やがて物語はシルヴィアの少女時代に迫っていき……。『映画の中の子ども・家族』Vol.52は、心に深く沁み入る大人のラブストーリー『あの歌を憶えている』に秘められた母娘の関係に迫ります。
傷ついた心と心が求め合う

© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
深い苦しみを抱えて生きる女が、哀しい運命を受け入れて生きる男と出会う。『或る終焉』(2015/カンヌ国際映画祭脚本賞)や『ニューオーダー』(2020/ヴェネツィア国際映画祭審査員大賞)など、人間と社会の真実を突きつける作品で知られるメキシコの俊英ミシェル・フランコ監督の最新作は、社会の隙間に落ちたふたりの切実な愛を描いたヒューマンドラマだ。
ニューヨークのブルックリンで暮らすシングルマザーのシルヴィアは、ソーシャルワーカーとして働いている。ひとり娘のアナに対して過干渉気味だが、ふたりの関係はおおむね良好だ。だがシルヴィアは少女時代からずっと癒えることのないトラウマを抱えており、他人に心を開けないでいる。
規則正しい生活を淡々と送っていたシルヴィアだったが、妹オリヴィアに誘われて渋々参加した高校の同窓会でソールと出会う。ソールには若年性認知症による記憶障害があり、昔のことは覚えていても最近のことはすぐに忘れてしまう。そのため弟アイザックとその娘サラの家に同居し、彼らの世話を受けて暮らしていた。
サラから頼まれ、シルヴィアは昼間だけソールの面倒をみる副業を始める。やがてシルヴィアはソールの穏やかな人柄に惹かれ、ソールもシルヴィアの存在が心の支えになっていく。そんなふたりが互いを強く求め合うようになるまでに時間はかからなかった。
そんなある日、アナを迎えにいったオリヴィアの家で、シルヴィアは母のサマンサと再会する。親子の縁を切り、一度もアナを会わせなかったシルヴィアのサマンサに対する拒絶反応はただ事ではない。この母と娘の間に、一体なにがあったのか──。
封印してきた母との忌まわしい過去

© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
12歳のときに遭った「ある出来事」の記憶に苦しめられているシルヴィアと、なくしたくない記憶を失っていく哀しみに直面しているソール。ともに困難を抱えて生きるふたりにとって、互いとの出会いは奇跡といって良いほど貴重なものだ。フランコ監督は多くを語らぬ演出で、どん底ともいえる状況のなかで出会った愛のきらめきを見事に描き出している。
また本作はラブストーリーであるとともに、壮絶な過去をもつ母娘の物語でもある。
サマンサの登場によって、観客はシルヴィアの経験した地獄がひとつだけではなかったことを知る。その要素を加えて冒頭から物語を振り返ってみると、シルヴィアの行動やパーソナリティに対する理解度がさらに深まるだろう。
幼少期に起こった忌まわしい事件と、娘を守る立場であるはずの母親の信じられない言動。そして姉を助けようとしなかった幼い日のオリヴィア……。母親の秘密を知ったアナがオリヴィアに放った言葉やシルヴィアに対する深い愛情の表明は、本作の大きな光になっている。
劇中でソールのお気に入りの曲として流れるのは、イギリスのロックバンド、プロコル・ハルムのデビュー曲にして世界中で1000万枚以上を売り上げた大ヒット曲『青い影』。1967年の発売から長い年月を経てもまったく色褪せないエモーショナルなメロディが、ふたりの心情に寄り添うように何度も繰り返されるのが印象的だ。
名優ふたりが見せる圧倒的なリアリティ

© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
過去の記憶に苦しむシルヴィアを演じるのは『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012)でゴールデン・グローブ賞ドラマ部門女優賞、『タミー・フェイの瞳』(2021)でアカデミー賞®主演女優賞を受賞したジェシカ・ジャスティン。名実ともにハリウッドのトップスターとなった彼女だが、小規模な作品をむしろ歓迎しており、本作では自ら街に出て衣装を買い集め( トータルで130ドルほどだったという)、ヘアメイクも毎日自分でおこなったという。
若年性認知症を患い、数日前・数秒前の記憶が消えてしまうソールには『ニュースの天才』(2003)で数々の賞に輝いたピーター・サースガード。不安と哀しみを抱きながらもシルヴィアを一途に愛する穏やかな人物を見事に演じ、本作でヴェネチア国際映画祭男優賞を受賞している。そのほか、妹オリヴィア役にメリット・ウェヴァー、サマンサ役にはジェシカ・ハーバーと実力派の俳優が脇を固め、シルヴィアの娘アナ役にはTVシリーズ『マニアック』でエマ・ストーンと共演して注目されたブルック・ティンバーを起用。フレッシュな魅力が光っている。
人はどんなに絶望的な状況でも、希望や愛と出会うことができる。過去や家族に恵まれなかったとしても、未来はわからない。記憶の影を断ち切り、前に踏み出すことの素晴らしさを温かい目線で描いた作品だ。
<作品情報>
あの歌を憶えている
© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
2/21(金)より新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国公開
第80回 ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門 男優賞受賞(ピーター・サースガード)
第80回 ヴェネチア国際映画祭 最優秀作品賞 ノミネート
第7回 ブリュッセル国際映画祭 最優秀作品賞 ノミネート
第41回 ミュンヘン映画祭 外国語映画賞 ノミネート
第40回インディペンデント・スピリット賞 ベストリードパフォーマンス賞(ジェシカ・チャステイン) ノミネート
監督・脚本:ミシェル・フランコ『ニューオーダー』『或る終焉』
出演:ジェシカ・チャステイン『女神の見えざる手』、ピーター・サースガード『17歳の肖像』、メリット・ウェヴァー、ブルック・ティンバー、エルシー・フィッシャー『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』、ジェシカ・ハーパー『サスペリア』ほか
原題:MEMORY/2023年/103 分/アメリカ・メキシコ/英語/シネマスコープ/5.1ch /日本語字幕:大西公子/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル
公式サイト https://www.memory-movie-jp.com

© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023