親から逃れて生きようとした少女映画の中の子ども・家族 Vol.43『あんのこと』文/水谷美紀

© 2023『あんのこと』製作委員会
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幼い頃から虐待を受け、今は売春と覚醒剤の常習者。そんな少女「杏(あん)」が刑事・多々羅と出会い、新しい人生を歩き出す。ようやく希望が見え始めた2020年、新型コロナウィルスの流行によってさまざまな扉が閉ざされ──。『映画の中の子ども・家族』Vol.43は実話に基づいた一人の少女の物語『あんのこと』を紹介します。

底辺の生活を変えた出会い

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虐待されて育ち、売春と覚醒剤の常習者である少女、杏(あん)。小学校を中退しているため、漢字の読み書きはほとんどできない。ホステスの母はゴミ屋敷のような部屋に平気で男を上げ、杏には売春をして家に金を入れろと迫る。足の不自由な祖母は優しいが、無力で杏を助けてはくれない。

境遇に抗う気持ちも持てず、ずっと母親の言いなりになって生きてきた杏だったが、多々羅という風変わりな刑事と出会ったことで人生をやり直すチャンスを手にする。多々羅が主宰する薬物更生者の自助グループに通い始めた杏は、そこで知り合った週刊誌記者、桐野の紹介で仕事を見つけ、シェルターマンションで新しい生活を始める。夜間中学にも通い始め、日記をつけるというささやかな楽しみを手にする。

ところが2020年、世界を襲ったパンデミックによってあらゆる希望の糸が突然断ち切られてしまう。孤独と不安な日々のなか、杏は突如預かることになった隣人の子を懸命に世話するが……。

監督は『SR サイタマノラッパー』(2008)で衝撃のデビューを飾り、『22 年目の告白―私が殺人犯です―』(2017) や『AI 崩壊』(2020)など幅広いジャンルの映画を手がけてきた入江悠。モデルとなった事件を新聞記事を読み、「自分は絶対これを描かなければ」と決意したという、並々ならぬ想いがほとばしる作品だ。 そこには新型コロナウィルスで命を落とした監督自身の友人への鎮魂と祈りも込められているという。

旬の俳優・スタッフが集結

© 2023『あんのこと』製作委員会

ヒロイン・杏を演じたのは、今もっとも旬の俳優として引っ張りだこの河合優実。TBS系金曜ドラマ『不適切にもほどがある』への出演で一気に知名度を上げたが、たしかな演技力は映画界ではすでに高い評価を得ている。今回はヒロインをただ可哀想な人物として演じるのではなく、時には楽しみ笑う瞬間もあった杏の命のきらめきまで見事に表現し、観る者に強い印象を残している。

そんな杏を明るい世界に導こうとする刑事・多々羅役には佐藤二朗。さまざまな形で杏を懸命に支える一方、別の顔ももつ多面的な人物を唯一無二の個性で演じている。そんな二人と親しくなっていく週刊誌記者・桐野役には稲垣吾郎。密かに課せられた任務と多々羅との友情の間で板挟みになる人物を丁寧に演じ、落ち着いた存在感を放っている。

社会派の作品でありながら、きめ細やかで美しい映像をつくるために集結したのは第75 回カンヌ国際映画祭カメラドール特別表彰を受賞した早川千絵監督『PLAN75』(2022)の製作陣。特に浦田秀穂の静謐で緻密なカメラワークと、照明・常谷良男による杏の心情に呼応するような光の使い方によって、杏という少女の存在感がみずみずしく立ち上がる。杏の生涯は簡単に消化されない真実として、観客の心にずっと残り続けるだろう。

家族に縛られ苦しむ子どもたち

© 2023『あんのこと』製作委員会

機能不全家族の様子や虐待されて育った子ども(杏)の生態がリアルに描かれている点も、本作の大きく注目すべき点だ。

祖母、母、杏という女だけの3人暮らしに父親の影はなく、幼い頃から母親に虐待されてきた杏は完全に母親に支配されている。12歳から始めた売春も母親のすすめによるもので、杏は20歳になっても命じられると素直に従ってしまう。

杏の家のように、同居する祖母が虐待の事実を知っていても、見て見ぬふりをするケースは非常に多い。家族の誰にも助けてもらえない絶望感は、周囲に助けを求めたり自ら更生しようとしたりする力を根底から奪っていく。杏の場合は自分を可愛がってくれた祖母の身の安全をちらつかされた途端、母親の命令を拒否できなくなってしまうのだ。

母親は、ときおり杏を「ママ」と呼ぶ。それは第三者が聞くと単なる甘えや遊びのように響くが、実際は強烈な拘束力をもつグロテスクで戦慄すべき言葉だ。杏は母親にこう呼ばれると、まるで魔法の呪文にかかったように逆らう力を失ってしまう。これほど巧妙に狡猾に長年に渡ってコントロールされてきた杏が家族を捨てて家を出ることが、どれほど大変だったか想像を絶する。

もし今、当事者として家族からの支配に苦しんでいる人がいたら、ぜひ観て欲しい。苦しんでいる人を見て「どうして逃げ出さないのだろう」と思っている人にも、理解を促してくれる作品だ。

〈作品情報〉
『あんのこと』

6月7日(金)新宿武蔵野館、丸の内 TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開

【出演】河合優実 佐藤二朗 稲垣吾郎 河井青葉 広岡由里子 早見あかり
監督・脚本:入江悠 製作総指揮:木下直哉 企画:國實瑞惠

製作:木下グループ 鈍牛倶楽部 制作プロダクション:コギトワークス 配給:キノフィルムズ © 2023『あんのこと』製作委員会  PG12 上映時間: 114分

公式サイト:annokoto.jp

公式 X:@annokoto_movie