妻を殺したテロリストへの手紙映画の中の子ども・家族 Vol.35『ぼくは君たちを憎まないことにした』文/水谷美紀

©2022 Komplizen Film Haut et Court Frakas Productions TOBIS / Erfttal Film und Fernsehproduktion
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同時多発テロで愛妻を亡くし、幼い息子と二人きりになったアントワーヌ。突然の悲劇に襲われた彼がSNSに投稿した一文は、瞬く間に世界中に拡散され──。『映画の中の子ども・家族』Vol.35は実話をもとにした『ぼくは君たちを憎まないことにした』を紹介します。

大ベストセラーの実話を映画化

©2022 Komplizen Film Haut et Court Frakas Productions TOBIS / Erfttal Film und Fernsehproduktion

愛する家族を殺されたジャーナリストの一文が、憎しみの連鎖が続く社会を静かに変えていく。本作は同時多発テロで妻を失ったアントワーヌ・レリスによる世界的ベストセラーの同名ノンフィクションを映画化した、喪失と再生の物語だ。

作家をめざすジャーナリストのアントワーヌは、妻のエレーヌと17ヶ月になる息子メルヴィルと幸せに暮らしていた。内省的で感受性豊かなアントワーヌに対し、エレーヌは明るく外交的な女性だ。アントワーヌは魅力的な妻を心から愛しており、メルヴィルにとってもエレーヌは最高のママンである。ところがある夜、エレーヌは同時多発テロに巻き込まれて命を落としてしまう。映画はエレーヌを失い、全身が砕け散りそうになりながら息子とのふたり暮らしを始めたアントワーヌの“その後の日々”を静かに追っていく。

2015年11月13日にパリ市内と郊外の計6カ所で起こった同時多発テロは、犯人を含む死者130名、負傷者300名以上という甚大な被害を出し、フランスにおける「戦後最悪のテロ」と呼ばれることとなった。中でもロックコンサートの殿堂であるバタクラン劇場にはテロリストが立てこもり、巻き込まれた観客85名が死亡した。友人ブリュノと二人でコンサートに出かけていたエレーヌもそのひとりである。

「憎しみを贈らない」理由

©2022 Komplizen Film Haut et Court Frakas Productions TOBIS / Erfttal Film und Fernsehproduktion

妻の亡骸と対面したアントワーヌはその日、フェイスブックにテロの犯人グループに宛てた一文を投稿する。だがそこに怒りや悲しみをぶつける言葉はなく、「ぼくは君たちを憎まない」と語りかける。憎しみや怒りで応えるかわりに、息子が幸せで自由な一生を送ることでテロリストは恥じ入るだろうと綴ったのだ。それは憎しみを連鎖させることで犯人と同じ無知に屈したくないというアントワーヌの誇りと、壊れてしまいそうな自分を律するための宣言でもあった。

その静謐で力強い“テロリストへの手紙”はあっという間に世界に拡散され、多くの人に驚きと共感、感動をもたらすことになる。やがてその投稿はメディアの知るところとなり、ル・モンド紙の記事になったことでアントワーヌは一躍時の人となり、テレビに取材にと引っ張りだこになる。

だが「憎まない」と書いたからといって、アントワーヌの心が落ち着いているわけではない。葬式の準備では周囲を困らせ、自分だけが不幸であるかのような態度にエレーヌの家族から反発を買い、「達観した顔をしてテレビに出て」と言われてしまう。ときには突然、制御できないほどの悲しみや怒りに囚われるし、わがままをぶつけてくるメルヴィルにも大きな声を出してしまう日もある。それでもなんとか自分を立て直し、息子との二人暮らしを当たり前に過ごそうと努めるアントワーヌの姿は抑制的で、だからこそ観る者に彼の受けたダメージの大きさが響いてくる。

まだ母の死を理解できないメルヴィルの無邪気な振る舞いはアントワーヌの悲しみを増幅させることもあるが、一方で大きな支えになっていることも見逃せない。この愛くるしい息子の存在によって、アントワーヌは自暴自棄にならず、一日一日をなんとか生き延びることができたのだ。

あえてフランス人でない監督を起用

©2022 Komplizen Film Haut et Court Frakas Productions TOBIS / Erfttal Film und Fernsehproduktion

主人公アントワーヌを演じるのは『エッフェル塔 創造者の愛』(21)、『私はモーリン・カーニー 正義を殺すのは誰?』(23)の実力派ピエール・ドゥラドンシャン。理性と感情の狭間で苦悶する知的なアントワーヌはまさに適役だ。妻のエレーヌ役にはシンガーソングライターでもあるカメリア・ジョルダーナ。出番は短いが強い存在感と魅力で喪失を際立たせている。今回はISILに殺される役だが、アクション映画『レッド・スネイク』(19)ではISILを征伐する女性特殊部隊の一員として出演している。そして息子のメルヴィル役には、撮影当時3歳だったゾーエ・イオリオ。子役コーチによる演技指導を受け、長時間のリハーサルにも耐え、愛くるしいだけでなく確実な演技を披露している。

監督は、マラソンに挑戦する老人たちを描いたコメディ『陽だまりハウスでマラソンを』(13)のキリアン・リートホーフ。メルヴィンと同じ年頃の娘を持つ監督はたまたま叔母に勧められて原作を読み、即映画化を決意。当時アントワーヌの元にはすでにたくさんの映画化の話が来ていたが、最終的に監督がフランス人ではない(ドイツ人)ことも大きな決め手になり、権利を獲得した。客観性を保ちながらアントワーヌに寄り添った撮影は静的で美しく、温かい。この手の作品にありがちな感動を大げさに煽ることもなく、観客への配慮からテロの様子をあえてリアルに描写しなかった点もデリカシーの高さを感じさせる。

憎しみは不幸しか生まない。頭ではわかっていても傷つけられた人間は憎しみを抱き、報復しようとする。時には失われた命には命をもって償わせようとする。だが、その連鎖はどこかで断ち切らなければ永遠に幸せはやって来ない。現在、各地で起こっている戦いも、すべては憎しみの連鎖によるものだ。傷つけられた者に憎しみの連鎖を煽り、争いを先導しようとする人々に、本作に込められたメッセージが届くことを願ってやまない。

<作品情報>
ぼくは君たちを憎まないことにした
監督・脚本:キリアン・リートホーフ『陽だまりハウスでマラソンを』
原作:「ぼくは君たちを憎まないことにした」

2022年/ドイツ・フランス・ベルギー/フランス語/102分/シネスコ/5.1ch/原題: Vous n‘aurez pas ma haine/英題:YOU WILL NOT HAVE MY HATE /日本語字幕:横井和子/提供:ニューセレクト/配給:アルバトロス・フィルム/後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ
©2022 Komplizen Film Haut et Court Frakas Productions TOBIS / Erfttal Film und Fernsehproduktion

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