認知症の世界を斬新な手法で描く映画の中の子ども・家族 Vol.13『ファーザー』 文/水谷美紀

© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020
© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020

認知症の症状が進行し、不安や戸惑いに直面する父親と、介護をする娘。父親役を演じたアンソニー・ホプキンスが第93回アカデミー賞主演男優賞を受賞したことでも話題の『ファーザー』は、真摯なドラマであるとともに、スリリングな演出の見応えある作品です。

アカデミー主演男優賞・脚色賞受賞

世界的に高齢化が進む現在、映画の世界でも介護や認知症を扱った作品がフィクション、ノンフィクションともに増えている。

2012年のカンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞した『愛、アムール』(2012)は病の老妻をひとりで介護し追い詰められていく夫を描き、老老介護の悲劇と夫婦愛を世界に伝えた。その夫役を演じたジャン=ルイ・トランティニャンが代表作『男と女』(1966)の53年後を描いた『男と女  人生最良の日々』(2017)では認知症を患った80代のジャン=ルイを演じ、往年のファンを驚かせた。今回紹介する『ファーザー』も認知症の患者とその家族を扱った作品だが、認知症と介護に関わる家族への理解をうながすとともに、ジャンルを超えた名作として後世に残る映画になるだろう。

この作品は認知症の父親役を演じたアンソニー・ホプキンスが『羊たちの沈黙』(1991)以来、二度目のアカデミー賞主演男優賞を受賞したことで大きな注目を集めているが、超高齢国である日本に暮らす我々にとっては特に必見の作品だと言える。

© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020

日本は2020年の高齢化率(総人口に対する65歳以上人口の比率)が28.00%と世界第一位であり、二位以下のイタリア(23.01%)、ポルトガル(22.36%)、フィンランド(22.14%)を大きく引き離している(※1)。うち認知症有病率は16.7%(約602万人)であり、2025年には約19.0~20.6%(約675~730万人)に増加し、全日本人のおよそ5人に1人が認知症になると予測されている(※2)。認知症や介護はもはや日本に暮らす以上、自分の年齢や健康状態、生活環境に関わらず、誰にとっても他人事ではない、避けて通れない身近なテーマなのだ。

(※1)参照:World Bank
(※2)参照:厚生労働省老健局『認知症施策の総合的な推進について』

A.ホプキンスが見せる認知症の世界

原作は監督で脚色も手がけたフランスの人気劇作家フロリアン・ゼレールの戯曲『Le Père』。世界30カ国以上で上演され、ローレンス・オリヴィエ賞など名だたる賞を総なめにしており、日本でも2019年に橋爪功が父親役、若村麻由美が娘役で上演されている(フランスでは同じ原作を下敷きにした『Floride』という映画が2015年にジャン・ロシュフォール主演で公開されているが日本未公開。ただしこちらはかなり趣きの異なる作品のようだ)。

本作はアカデミー主演男優賞だけでなく脚色賞も受賞しているが、それも納得の作品である。認知症をテーマにした父と娘のドラマとしての魅力だけでなく、巧妙でミステリアスな脚本と演出はサイコスリラーのようにスリリングで飽きさせない。アンソニー・ホプキンスの演技力に加え、まったく別のキャラクターだと分かっていても、強烈に刷り込まれたレクター博士(『羊たちの沈黙』)の印象をつい重ねてしまうこともあって、冒頭から緊迫感のあるやり取りにぐいぐい引き込まれていく。

物語自体はシンプルだ。介護士を拒否し、ひとり暮らしを続けるアンソニー(アンソニー・ホプキンス)の変化と、そんな父を案じ、世話をする娘アン(オリヴィア・コールマン)の日々が描かれている。アンソニーの行動や発言はどんどん整合性がとれなくなっていき、時には腕時計が消えたと騒ぎ、場所を当てたアンを疑い、新しい介護士に暴言を吐く。アンの夫だという見知らぬ男とアンがアパートを乗っ取ろうとしていると思い、その手には乗るかと敵意をむき出しにする。入れ替わり立ち替わり現れる人々はやがて誰が誰なのかわからなくなり、時には観客もアンソニーとアンのどちらが真実を話しているのだろうと翻弄される。

アンソニーの言動はどれも認知症の患者に典型の症状だが、初期に病気だと見抜くのは難しく、ただの悪意や奇行に見えるためトラブルに発展することも多い。そんな彼の日常を監督はアンソニーの視点で我々に見せていく。記憶が失われ、意識が混濁し、過去と未来が交錯し、空間や時間の把握が困難になった人間の見えている世界を観客も一緒に体験することで、認知症患者の不可解で、時に介護者にとって苦痛や怒りになる言動や、患者の抱える不安や戸惑いを当事者の立場から見ることができる。しかもミステリーのような作りになっているので、観終わった後もう一度観たくなるだろう。

© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020

ときに傲岸に、ときに無邪気で茶目っ気たっぷりに、さらには怒り、泣き、底意地悪くと、目まぐるしく態度や表情を変えるアンソニー・ホプキンスの動きはまさに演技の見本帳のようで片時も目が離せないが、娘アンを演じ助演女優賞にノミネートされたオリヴィア・コールマンの切実な演技も素晴らしい。この物語は認知症患者の目を通した世界を描くとともに、変化して行く親と向かい合う子の物語でもあるのだ。

介護する娘の疲労と喪失感

翻訳家をしながら通いで父親の世話をしているアンの顔には、冒頭からすでに疲れと悲しみが滲んでいる。その表情から、すでにこの生活が長いこと、それによって身体的にも精神的にもギリギリのところで持ちこたえていることが伝わってくる。そこには認知症によって別人のようになってしまった父親の心ない言葉に傷つき、なにより父親の記憶から自分が消えていくことの悲しみや喪失感も含まれている。記憶障害が始まり、献身的に世話をしてくれているアンを気遣えなくなっているアンソニーは、自分のお気に入りは次女(アンの妹)だったと頻繁に口にし、新しい介護士(イモージェン・プーツ)を次女に似ているといって気に入る。そこからこの家族の過去も垣間見える。介護をしているからといってこの父娘の関係がずっと円満だったわけではないことを伝える印象的なシーンである。

アンにもアンの人生があり、かつて(たぶん介護も一因となって)離婚を経験している彼女は、新しい恋人との生活を選択し、父を施設に入れて渡仏する決心をする。だが、後ろめたさを感じていることも伝わってくる。親の介護を適宜プロの手に委ねることは日本でも最近でこそ珍しくなくなったが、少し前までは親を見捨てる愛のない行為、外聞の悪いこととされ、患者本人も家族自身もなかなか踏み出せなかった(現在でも同じように感じる人は多いし、さまざまな事情で不可能な人も多い)。

© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020

アンを見ていると家族の介護に対する想いは万国共通であり、患者本人だけでなく周囲の人間も苦しまない介護が全世界の課題であることも痛感させられる。その意味でも、この作品は周囲に要介護の家族がいない人や、まだ身近な問題と思えない若い世代にもおすすめしたい。著名なアンソニー・ホプキンスの受賞がその大きな後押しになったとしたら、二重に喜ばしいことである。

“それだけではない”面白さ

日本で認知症を扱った名作映画というと、現在まで何度も繰り返しドラマ化もされている『恍惚の人』(1973年 監督:豊田四郎 )が思い出される。原作はその前年に書かれた有吉佐和子の同名ベストセラーだが、半世紀前に書かれた作品なのに今読んでもまったく古さを感じないことに驚かされる。それはもちろん有吉の筆力に負う部分も大きいわけだが、さまざまなサポートやサービスの導入によって身体的な負担は軽減されたものの、認知症患者とその家族が抱える本質的な苦労や苦悩が、昔と今でほとんど変わっていないことを意味している。

認知症には遺伝子が大きく関わっていることは近年の研究で明らかになっており、APOE遺伝子検査によって自分の発症リスク(遺伝子の型と組み合わせにより約3倍~12倍の開きがある)を知り、食生活を含めた生活習慣から見直すことも認知症予防の一助として推奨されている。もちろんそれで完全に認知症を防ぐことはできないが、健康に気遣うことは間違いなく自分だけでなく家族の幸せにもつながる。世界規模での健康志向の高まりが、認知症予防においてもこれまで以上に効果をもたらすのではないかと期待されている。

新型コロナウィルスのワクチン接種が、いよいよ日本でも始まった。驚異的なスピードで開発にこぎつけた人々や日々、患者の治療にあたる医療従事者の方々には感謝しかない。その一方、コロナ以前から特に癌と認知症を完治する薬は多くの人が一日千秋の想いで待ち望み日夜研究されているものの、いまだ誕生していない。長らく築いた家族の幸せや楽しい記憶を奪っていく悲しい病はどれも一刻も早い撲滅が望まれる。

高齢化社会を生きる我々にとって、アンソニーとアンの物語は誰にとっても自分と誰かの物語だ。そしてそんな二人の物語を共感や感動の羅列だけで終わらせず、芸術作品としての驚きを提示し、大きな存在感を見せつけたフロリアン・ゼレール監督は、間違いなく突出した才能の持ち主だろう。次はどんな作品を見せてくれるのか、今から楽しみだ。

〈作品情報〉
『ファーザー』
絶賛公開中

監督:フロリアン・ゼレール (長編監督一作目)
脚本:クリストファー・ハンプトン(『危険な関係』アカデミー賞脚色賞受賞)
フロリアン・ゼレール
原作:フロリアン・ゼレール(『Le Père』)
出演:アンソニー・ホプキンス(『羊たちの沈黙』アカデミー賞主演男優賞受賞)
オリヴィア・コールマン(『女王陛下のお気に入り』アカデミー賞主演女優賞受賞)
マーク・ゲイティス(「SHERLOCK/シャーロック」シリーズ)
イモージェン・プーツ( 『グリーンルーム』)
ルーファス・シーウェル( 『ジュディ 虹の彼方に』
オリヴィア・ウィリアムズ( 『シックス・センス』)
2020/イギリス・フランス/英語/97分/カラー/スコープ/5.1ch/原題:THE FATHER/字幕翻訳:松浦美奈
配給:ショウゲート
公式サイト:thefather.jp