国際養子縁組の複雑な手続きを経て家族へ【前編】【前編】国籍の異なる子どもを特別養子縁組で迎えたネルソン聡子さん

日本の特別養子縁組制度においては、子どもへの負担を最小限にするために、国内の養親への委託が優先されています。ただし、その子どもの出身国に適切な家庭が見つからなかった場合に、子どもの福祉を優先する家庭養護の方法として、国籍の異なる子どもの養子縁組も行われます。今回お話をお聞きするのは、海外から迎えた遠戚の子どもと特別養子縁組で新しい家族になった翻訳者のネルソン聡子さんです。国際養子縁組のハードルは高かったものの、持ち前のバイタリティでさまざまな手続きをクリアして法的にも家族となりました。国際養子縁組の経緯をお聞かせいただくと共に、今後スタートする特別養子縁組の啓発活動についても語っていただきました。

国際結婚後に不妊治療を開始するも……

特別養子縁組を考え始めた頃のことを教えてください。

ネルソン聡子さん:12年前にアメリカのサンディエゴから来日した夫は、小中学校の英語講師をしていました。出会いはお台場で開催されたメキシカンフェスです。意気投合して交際が始まり、ほどなく結婚しました。その時点で私は40歳を過ぎていたことから、すぐに不妊治療を始めました。二人とも子どもは大好き。私は保育士資格も持っており、保育園で働いていた時期もあります。

ギリギリの年齢だと思ってはいましたが、病院で最初に言われたのは、「治療が成功する確率は10%です」という言葉。簡単ではないと覚悟しつつ、人工授精、そして体外受精にチャレンジしました。しかし、体外受精を3回ほど行っても成功には至りません。フリーランスの仕事ですので、会社勤めの人よりは時間の融通は利きます。それでも定期的な受診や服薬は大変でしたし、回を重ねるにつれて経済的な負担が圧し掛かってきました。

夫からの養子縁組の提案にすぐは動けず

養子縁組の話は夫の方から切り出してきたと思います。「アダプションを考えるのはどうかな」と。アメリカでは日本よりも養子縁組は浸透していますから、彼自身は抵抗や偏見はまったくなかったようです。私は強く拒絶したわけではありませんが、すんなりとは方向転換できず、不妊治療を続けたいと返事をしました。

なぜそこまで不妊治療にこだわっていたのか、今振り返るとそんなに固執しなくてもよかったのに、と思います。「血縁のある子どもでなくてはならない」と思っていたわけでもありません。そのときは、不妊治療にトライしているのに、それが成功しないこと、結果がでないことに固執していたのだと思います。

とはいえ、時間やお金のやりくり、心身に及ぼす影響も大きくなり「不妊治療は諦めよう」という気持ちに傾きました。そして、治療をやめる決心ができてからは、すぐに養子縁組に関する情報を集め始めました。児童相談所に問い合わせたり、民間の養子縁組あっせん機関のオリエンテーションも受けたりしました。

ところがその矢先に、夫が体調を崩してしまったのです。仕事も休職せざるを得なくなり、自宅療養をしながらの通院。私は翻訳業と看病の両立に専念することになり、特別養子縁組に向けた動きはいったんストップしました。

フィリピンから「養子に託したい子がいる」

どれくらいの期間、療養されていたのですか?

夫の療養は一年ほどで、おかげさまで順調に回復し、元気になってくれました。考える余裕も出てきたところで、改めて養子縁組に向けて動こう、という話し合いをしました。

ちょうどそのタイミングです。アメリカ在住の義母から「話があるの」と。フィリピンに住む遠い親類に「養子として託したい子がいる」ということを伝えられたのです。私も夫も「これはご縁だ!」とうれしくなり、すぐに「ぜひお願いします」という返事をしました。

フィリピンにご親戚がいらっしゃるのですね。

義母の親類縁者はフィリピンにたくさん住んでいます。フィリピンの家族観は核家族が中心の日本とは異なり、三世帯同居は当たり前、直接の親子以外に、親戚も含めた大家族で住んでいることも多いそうなのです。どの人まで血がつながっているのかわからないくらいの拡大家族だそうです。

画面越しの笑顔に「恋に落ちた感覚」

しばらくは夫と義母がやり取りをして話を進めていました。子どもの顔を始めて見たのは、生後7か月くらいの時。9月のことでした。インターネット電話の画面越しではありますが、とてもとても可愛くて!その笑顔に胸を撃ち抜かれたといいますか、まるで恋に落ちたような感覚でした。

産みのお母さんは画面越しに他の家族も紹介してくれました。フィリピンでも地方にお住まいなので、途中、電話が途切れて何回もかけ直したりしましたが、「ほんとうに養子に送り出して大丈夫ですか」とお訊きして、意思確認はしました。「上に男の子が3人いて、育てるのに精いっぱい。日本でいい教育を受けて幸せに育って欲しい」という思いを伝えてくれました。

「娘の笑顔を初めて見たときのことは忘れられません」と語るネルソン聡子さん

男女格差はどの国にもありますが、フィリピンの貧しい家庭に生まれた女の子の将来を広げていくのはほんとうに難しいそうです。私達も、「そうおっしゃってくれるならば光栄です。しっかり育ていきます」と約束しました。

弁護士や国際行政書士のサポートを得て

国際養子縁組となると手続きも複雑そうです。

そうなのです。当事者同士は問題なく意思確認はできましたが、壁となるのはやはり国際養子縁組の手続きです。ハーグ条約(正式名称:国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)の国際養子縁組法にフィリピンは批准しています。一方、日本は批准していないことから、複雑なやり取りを要することになりました。

最初はフィリピンで養子縁組の手続きをして、日本に入国してから国内法で特別養子縁組をする、という流れを想定していました。しかし、先に日本で養子縁組の許可がないと、フィリピンでの許可が下りない。しかも、民間機関の許可ではなく、政府機関の許可が必要ということで、日本の家庭裁判所に問い合わせました。すると、「特別養子縁組の最初の申し立てをするときに、子どもが日本に居る必要がある」ということでした。

そのために、日本に入国できるようにするにはどうすればいいのか、まったくわかりませんでした。そこで、養子縁組に関して詳しそうな弁護士や国際行政書士に、手当り次第電話やメールをしました。しかし、ほとんどの人が「その特別養子縁組は難しいと思います」という返答でした。

そんな中、インターネットで調べる中で、「短期ビザを取得して、それを更新しながら成立させる方法がある」ということを知りました。そこからフィリピンとの仕事の経験がある国際行政書士や弁護士を探して依頼しました。国際養子縁組は悪用を退けるために厳しい審査が行われます。経験豊富な行政書士からも「このケースは滞在ビザが降りるか降りないか、五分五分です」といわれましたが、書類や資料の提出について綿密なアドバイスを受けて、丁寧に作成。おかげさまでビザを取得することができたのです。

動物園で、いとこのお姉ちゃんと。


確かにややこしい手続きですが、確実に進めていかれたのですね。

順調に進んだ要因は、詳細な“証拠”を示したからだと思います。産みのお母さんとのメッセンジャーでのやりとりの履歴は最初からすべてコピーしました。同意書については、親御さんはもちろん、10歳になるお兄さんの同意書もいただき、日本語訳も付けて提出しました。

もともと翻訳業であったこと、海外とのイベント企画を進行する仕事を手掛けた経験もあり、タスク作業は得意でしたので、抜かりなくやれたのかもしれません。何より、行政書士と弁護士の的確なサポートがあっての成立だったと思います。(後編へ続く


※ネルソン聡子さんが発起人を務める
「Adoption for Happiness = アダプション・フォー・ハピネス(幸せになるための特別養子縁組)」について

クラウドファンディング挑戦中
特別養子縁組が「特別」ではない世の中を目指し、養親縁組に関する海外のドキュメンタリーや当事者(産みの親、養親、養子)のインタビュー映像を配信するプロジェクトhttp://camp-fire.jp/projects/view/741468?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_projects_show

・全国養子縁組団体協議会代表理事 静岡大学教授 白井千晶先生との勉強会を開催(ピーテックスの申し込みページ)

1回目:7月7日(日)20時30分〜/テーマ「養子の声」
https://peatix.com/event/4027841

2回目:7月17日(水)20時30分〜/テーマ「養親の声」
https://peatix.com/event/4030497

・note
https://note.com/sft_afh

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https://x.com/Happy_Adoption

・Instagram アカウント名:adoption_for_happiness
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取材・文/林口ユキ