親子の居場所づくりとファミリーホームを目指す、らもりーるの挑戦【前編】特別養子縁組養親・谷口夫妻インタビュー

ある日、エンライト編集部のもとへ「映画『まだ見ぬ あなたに』を上映したい」というお問合せをいただきました。上映場所は、大阪府交野市で親子の居場所づくりを行う一般社団法人らもりーる。代表の谷口絵里子さんは、特別養子縁組で迎えたお子さんを養育中で、今後さらにファミリーホームを目指しているとのこと。早速取材を申し込み、一般社団法人らもりーる代表・谷口絵里子さんと、パートナーの谷口彰治さんにお話を伺いました。

大好きな保育士の仕事を離れて

らもりーるの活動を始めるまでの経緯を教えてください。

谷口絵里子さん:始める前は、保育士として5年半ほど働いていました。当時は、普通に結婚して妊娠しても子育てをしながら保育の世界で生きていくつもりでいたのです。24歳で結婚しましたが、なかなか授からず、1~2年経って病院に行ったところ、医師からは「まだ若いし、不妊治療とか考えんでもいいよ」とうまく取り合ってもらえませんでした。でも5年が過ぎても授からないので、もう1回病院に行き、タイミング療法ですぐに妊娠できたのです。ところが、喜びもつかの間、すぐに流産となりました。子どもができるかもしれないという喜びと、流産をなかったことにしたい自分とがいて、パッと気持ちにふたをしてしまい、1年間働き続けたんです。

それからは「またつくらなきゃまたつくらなきゃ……」と思い続けながら働いていたせいか、心のバランスを崩してしまいました。心が荒れると目の前の保育園のクラスの子が荒れる、保護者対応もしんどくなってきたのです。しばらくして気づきました。私の中にある、赤ちゃんを授からない怒りや哀しみが、子どもたちにしわ寄せとして行っているということに。「こんな私は子どもの近くに居る資格はない、母親になる資格もない、退職しよう」、そう決めました。

一生続けるつもりの大好きな仕事でしたから、ほかの職員もびっくりしていました。園長先生が「パートで続けてはどう?」と言ってくれて、「パートならできるのかな」といったんパートに切り替えました。そして、しばらくするとまた妊娠したのですが、再び流産となってしまいました。あまりに辛すぎて、私は保育園に行けなくなりました。そのときはすぐに園で退職の手続きをしてくれました。

退職後しばらくしてから、「やっぱり、子どもとお母さんの側にいたい!」と思い、ベビーマッサージの資格を取りました。地域のお母さんに教えながら、いろんな悩みを聴くうちに、「ベビーマッサージだけではお母さんたちの悩みは解決しない」と思うようになりました。先生とお客さんという関係性にもしっくりきませんでした。「核家族で孤独に子育てしている状況がおかしい、みんなで一緒に育てよう」という思いが湧き上がりサークルを立ち上げることになったのです。

サークルではママたちが主体になって動いてくれました。それはそれで関係性としてはよかったのですが、今度は私が完全にボランティアになってしまい、そのうち「あれ?なんかすり減ってくぞ」と(笑)。そんな時、夫が経営する会社(住宅設備の修理施工)の税理士さんから、補助金の申請をして、会社の事業の一環としてママサークルを運営したらどうかというアドバイスをもらいました。地域にコミュニティを作ることで、会社はユーザー目線のリサーチができて、仕事も受注できたらなお良い。ということで、会社から運営費をいただいて、ママたちには安く参加してもらえるようにしました。

何かを習う教室でなく、親子で来てもらう保育園みたいなスタイルで運営していました。親子で来ていただき、子どもたちを遊ばせて、お昼を作って食べて、晩御飯作って持って帰る。みんな一緒にご飯を食べて一緒に手作業したら、人と人との話ができるんですよ。夫とのこと、子育ての悩み、仕事のこと。地域の子育て支援はほかにもあるけど「らもりーるに来ると仲よくなれる」と言ってもらえました。ママ友という関係に留まらない、もっと個々がつながれる感じがありました。

私、やっぱりお母さんになりたい

―会社の運営から独立して社団法人を作ろうと思われたのは?

絵里子さん:2016年に熊本地震が起きた際、支援物資がたくさん集まったのです。ただ少しタイミングが遅くて、どこに何が必要なのかネットで見てもわからない。みなさんからの物資をムダにできないからこの目で確かめたい。私ができそうなボランティアをみつけて1度参加してみたら「また行きたい」と思って、結果1年間のうちに何度も通うことになりました。

私が参加したボランティアは、コミュニティスペースでリース作りのワークショップをしたりして、それをきっかけにお話を聴くんです。子どももいるからお化け屋敷ごっこしたり。子どもたちとの一体感ある共同生活のような雰囲気が、私にとっては「求めていた事を見つけた!」という実感がありました。 被災地って大変な事ばかりだと思うのですが、それ以上に今、日本が失いかけている、人と人の繋がりが温かくて。見ず知らずの人同士も、気づいたら一緒にご飯を食べて笑い合ってる瞬間がたくさんあったのです。あれが日常になったらいいなぁと思っています。

熊本地震で何度も被災地に足を運んだ後、震災から6年後の東北にも行きました。そこで現地の方にこんなことを言われたのです。「ここに来た貴方は、何があっても生き延びる責任がある。当たり前に生活できる幸せ。明日が来るかは分からない。今日という日を楽しく生きるんだよ」

その言葉と、熊本で見た被災地の映像が合わさって、「自分がやりたいと思ったことを全て叶えよう。 生きてるから、今の生活があるから、叶えられる事がある」と強く思いました。 

「やっぱりお母さんになりたい!近くで子育て応援できればいいと思っていたけれど、やっぱり私はお母さんになってから死にたい」と。「そして、『いつか』はこないかもしれない。今すぐ行動しよう!」その想いが今の私の軸になっています。

熊本で出会った人が社会福祉関係の人で「養子や里子を迎えたいのだったらここに電話してみたら」と、児童相談所を教えてくださり、そこに電話したらトントン拍子にお話が進みました。その後、1年間研修を受けて2年後にはこの子を迎えていました。生後半年で出会って7か月で委託になって、この12月でうちに来て丸1年になります。

里親か養子縁組か

―最初から養子縁組を希望されたのですか?

児童相談所の担当の方と面談でさまざまなお話をしました。最初私は、戸籍はどちらでもかまわないと思っていました。いっぱいの子を迎え入れられたらいいなと。でも施設ではなく、家庭的に育みたいから「ファミリーホーム」を作りたいと考えました。ただし、児童養護施設で働いた経験もありませんので、まずは養育里親から始めようと。でも、面談でいろいろお話を聞いていくうちに、一生涯その子の育ちをみるっていう経験があってこそ、戸籍でつながらない子も育めるのではないか、と思い始めました。「戸籍関係にこだわらないなら、戸籍があってもいいのかな」と考え直しました。

育みホーム(養育里親)は産みのお母さんや国があっての子育てだけど、その前に、お母さんとして自分の子育ての軸を作りたいとも思いました。保育士としての軸はすでに持っていると思いましたが、自分の子として試行錯誤しながらともに育つお母さんの軸が必要だと思ったのです。最初に夫から「特別養子はどうだろう」と提案されたときには「ファミリーホームの夢が遠ざかる」とも思ったけど、確かにそうだなと。

養育里親と特別養子縁組里親では、登録や研修形態が違うからどちらかを選ばなければなりません。そこで、いろいろ考えた結果、特別養子縁組を希望しました。夫も仕事の都合つけてくれながら、1年くらいかけて実習まで全部終えて登録に至りました。事前には、特別養子縁組里親は登録してもなかなか子どもと出会えないと聞いて覚悟していましたが、「大阪はそんなことないよ」「たまたまご縁があればすぐ紹介できることもありますよ」ともお聞きしていました。結果、本当に認定と前後してすぐにご連絡を頂きました。

神様は意地悪?

その内容は「ご紹介できるお子さんがいます。心臓に穴が空いています。どうされます? それでもいいですか? よく考えてくださいね」でした。私はそのとき、急なお話に戸惑ってしまい、「神様は意地悪だ!」と思いました。2人目ならともかく1人目で病気を抱えたお子さんを受け入れられるのだろうかと。電話でお話をお聞きしただけでは判断がつかず、らもりーるの活動を通してつながりがあった助産師さんに相談しました。

助産師さんの第一声は「よくあることやで」でした。「もともと穴は開いているんだけど、お腹にいる間にふさがるの。でもたまにそのまま生まれてきちゃうことがある」と。さらに「その隙間をらもりん(絵里子さんの愛称)と旦那さんに埋めてもらいたくて、その子は来るのとちゃう?」と言われたので「あ、そうか」と。ファンタジー好きな私は妙に納得したのです。よく聞いてみたら周りでも「うちの子もそうやったで」「今は全然元気」という方もいらして安心しました。

それでも数日間は悩みました。「病気や障がいを持っているかもしれないから断る、イコール、お腹の中にいたとしたら殺すってこと?」「選べるって酷だな、選べなかったら覚悟を決めるだけなんだけど」などなど。でも最終的には、「声かけてもらった子は受け入れよう、ご縁だから」と思いました。

受け入れようと決めて、経過観察を待ちましたが、小さくなるはずの心臓の穴は大きくなってきてしまいました。風邪もひいて、容体はどんどん悪化してきたのです。視線もあまり合わなくなり、手足も動かさない、ミルクもあまり飲まない。そしてとうとう緊急手術となりました。さらに「血液検査で先天性の障がいがあるか調べます」と医師から告げられ、「なんて神様は意地悪だ」と、また思ってしまいました

それでもやはり、ご縁はご縁ですので、待つと決めました。障がいがあってもなくても、心臓に穴が空いていても待つ。そうした心持でいたら、「手術終えて元気になりました。発達はゆっくりでフォローは必要だけど、先天性の障がいもなかったです」というご連絡をいただきました。

で、すぐ実習が始まって詰めて通って1か月くらい、「お母さん子どもの扱いも慣れてますね」と言っていただき、そこからはスムーズに、体調も崩さず、乳児院で感染症も流行らず。11月後半から長期外泊になって、12月5日から完全に委託になりました。

にこっと笑ってくれた!

―初めて会えたときはどんな印象でしたか。

彰治さん:「やっと会えたな」って。写真では見てたから、「あ~動いてる」。
「笑って」って言ったら僕の膝の上でにこって笑ってくれたんですよ。

絵里子さん:旦那が抱っこしてて、「写真撮っていいですよ」って職員の方に言われたので私が「笑って!」って言うとにこって笑ってくれて。表情が乏しい子やって聞いてたのに。不思議とめっちゃ似てるな、って話になって。乳児院の先生たちの中でも「めっちゃ似てるお母さん来たで」って話題になったらしいです。

―彰治さんは、養子や里親っていう事に関しては抵抗なかったんですか?

彰治さん:彼女がやることは間違いないという信頼があるから、僕はあんまりなんも考えてないです(笑)。ちゃんと考えて答出しているから、ついていくだけ。手伝えることは手伝うし、彼女の意思を尊重したい。長年、犬を飼っていましたから、2人と1匹でもいいのかなと思っていたりもしたけど。でも子育てしたいって思うなら、僕も協力したい。血のつながりがあってもなくても、そこにこだわりはありません。ファミリーホームにするとなると、規模も変わってきますが、たくさんの子どもと関わりができて楽しみも増えるし、それで人助けになるのであれば。

―ご実家ご親戚の反応はいかがでしたか。

彰治さん:反対はないですね。「養子を迎えるね」と伝えたら、「そうか」という感じで。

絵里子さん:初めはどちらの両親も「養子を迎えてまで、大変な想いをしなくてもいいんじゃない」とは言っていましたよね。それはもしかしたら「跡を継いでくれるためにと考えてくれたのならそこまでしなくても自分らはいいよ」っていうことだったのかも。でも、こっちが正式に「養子を迎えます」と伝えたら「あ、そう」。で親の承諾がやっぱりいることがわかってそれにも、「あ、はい、協力します」という感じで。ほかでは旦那さんが抵抗あったり、血のつながり大事って思うところもあるらしいけど、うちは旦那からもどっちの両親からもストップかからず、恵まれていると思います。

私の母からも、それまでは「子どもはいないのになんでボランティアしてるの?」「自分には子どもができないのにわざわざ悲しいところに居て、つらくない?」と不思議がられていたんですよね。私はらもりーるでご縁のある子たちは、みんな自分の子って思っていたし、それを親も見てきてたんですよね。母も昔保育士で、そういう世界も知ってる。ただ「あなたに子育てできるの?」とは心配していました。親として私は頼りなく見えたんでしょうね。今は応援してくれてます。両親も忙しいからあんまり会えてないけど気にかけてくれてて。この前は『いないいないばあ』の絵本買ってくれて。孫として受け入れてくれている感じです。

後編は、らもりーるのこれからの活動とファミリーホーム構想についてです。

取材・文 高橋ライチ  写真 長谷川美祈