開いて、閉じて ~加納土『沈没家族 劇場版』~『沈没家族 劇場版』レビュー

©おじゃりやれフィルム
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90年代半ばに試みられた共同保育の実践「沈没ハウス」。ここで育った子どもがドキュメンタリー作品として劇場公開した話題の映画を、社会福祉士Sの視点でレビューします。

セルフドキュメンタリーの世界を更新

平成という時代は、セルフドキュメンタリーの時代であったと言うことができるかもしれない。たとえば、河瀬直美『につつまれて』や、小野さやか『アヒルの子』などの作品が生まれ、監督が、自分の家族にカメラを向け、その関係性を対象化しようとする表現は、劇映画では得られない強さを放っていた。

平成という時代が暮れる直前に、セルフドキュメンタリーの世界を更新する作品が現れた。それが『沈没家族』である。本作品は、監督が自分自身や、自分が育った〈家族〉と決着を付けるために作られなくてはならない必然性を持った作品であり、その必然性が観る者を強く惹き付ける。

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この作品のなかで、生物学上の母親は、甘えるような、そばにいる同志のような存在として描かれ、一緒に時間を過ごすことが少なかった生物上の父は、よそよそしくもあり、苛立ちをぶつける存在して描かれている。おそらくそれらが、監督の現段階での家族に対する関係性のひとまずの結論なのだろう。そして、今後それはまた変容していくかもしれない。それがまた観る者の想像力を掻き立てる。

弱さを感受した者たちが育む命

監督の生物的な母親として存在している穂子さんは、ほぼ私と同世代の女性というか母親だ。私が大学に進学して、フェミニズムとか家族社会学の本を読み始めた頃に、穂子さんは、既に家族という営みを始めていた。

おそらく穂子さんは生殖家族が社会的な規範にまみれている近代家族であることを感知して、生殖家族に早々に見切りをつける選択をした。そして、共同養育という方法論を実践し始める。その頃の映像には、みずからの弱さを感受した者たちが集い、さらに弱い命を育もうとするとする確かな意思に溢れた共同体が確かに存在していたことが記録されている。

穂子さんは、動物的な感覚(若い時の穂子さんは丸坊主であり、私には猿のように見えたから、動物的と書いている)として、共同養育を選んだ。自分は弱いということを素直に認められる穂子さん一人の力は弱いように見えて、本当は強いのだと思う。

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一方で、穂子さん自身の生い立ちを考えると、このような選択が出来たのは、思想的でもあると言わなくてはならない。穂子さんと穂子さんの母(土君にとっての祖母)の関係については、この映画では言及されていないけれども、興味深いテーマだと思う。

豊かな共同体となり得た理由

沈没ハウスが、監督にこの作品を撮らせるほど豊かな共同体として存在し続けられた理由はなんだろう。私は次のように考える。

穂子さんが、性を媒介とする対幻想にきちんと幻滅して、共同養育という幻想を実践したからだと思う。それが沈没ハウスを豊かで安全な空間にしたのだろうと思う。もし沈没ハウスにおいて、新たな別のパートナーを見つけるという対幻想の混乱が起こっていたら、おそらくそこで育った土監督は、居心地の良さや安心感を持つことはできなかったはずだ。そこにも穂子さんの動物的かつ思想的な判断が働いていたはずだ。

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沈没ハウスはそうして豊かな共同体となった。穂子さんと土君との間には母と子という愛着の強さという対幻想の核があり、それを包み込むように共同養育という共同幻想の層が二人を包み込んでいる。そんな環境のなかで土君は安心感を抱きながら成長することができたのだろう。この事実は、子どもが生まれ育っていくことの原形について改めて考えさせてくれる。

土君が二桁の年齢になった頃、穂子さんが、別の土地で生活をしようとしたのは、子どもであった土君にとっては負担でしかなく、もう少し土君の精神的な成長を待つべきであったとは思うけれども、そうはうまく進まないのが家族という現実でもある。

家族という共同体が閉じていった時代に

翻って、土君が成長していった平成という時代は、児童虐待が社会問題化した時代でもあった。児童虐待というのは、家族という共同体が閉じていき、そのなかで機能不全に陥った家族の持つエネルギーが、そのなかの相対的に弱い立場の者に暴力的に向かってしまうことを指す。

虐待的な関係を持つ家族は、閉じ過ぎた家族であり、この映画に登場する沈没ハウスは開き過ぎた家族であると言えるかもしれない。家族を続けるために必要なことはバランスだと改めて思う。開き過ぎれば、家族としての凝集性がなくなり、閉じすぎれば、家族内に暴力が渦巻いたりする。家族というのはバランスのなかでしか生き延びることができないのかもしれない。

私たちは、開いたり、閉じたりする家族の在り方を見つめながら、自分自身が営む家族の在り方を振り返り、そこからまた家族という営みを続けていかなくてはならない。

(作品情報)
『沈没家族 劇場版』
監督・撮影・編集 加納土
2018年 日本
©おじゃりやれフィルム
公式サイト http://chinbotsu.com/
上映劇場 http://chinbotsu.com/theater.html

text・社会福祉士S