私たちはこのように子どもの成長を見守ることができるだろうか映画『思い出のマーニー』

日本のみならず、世界の多くの人たちに知られるスタジオジブリが2014年に制作した作品。家庭的養護に関心を持つ人たちにとって必見の映画です。社会福祉士の視点でレビューします。

家庭的養護をテーマにした成長の物語

人間は他人のたましいを直接には癒すことはできない。それはいくら手を差しのべてもとどかない領域である。われわれはたましいの方からこちらへ向かって生じてくる自然の動きを待つしかない。
(河合隼雄1985「『思い出のマーニー』を読む」より)

スタジオジブリといえば、宮崎駿監督や2018年4月に亡くなった高畑勲監督を思い浮かべる方が多いと思うが、家庭的養護に関心を持つ人たちは、スタジオジブリが製作した作品とは何かと問われたならば、即座に『思い出のマーニー』(米林宏昌監督作品)であると言わなくてはならないだろう。『思い出のマーニー』は、家庭的養護をテーマにした、美しくもせつない、ひと夏の少女の成長の物語である。

原作は、イギリスの児童文学であり、『Whem Marnie Was There』という原題を持つこの物語は、1967年に出版され、日本語にも翻訳されている。日本では里親を扱った映画は少ないけれども、この映画は、これまで日本人に最も多く観られたと思われる、里親を扱った作品でもある。本作がどのように里親のことを扱っているのかということをここで説明してしまうのは、未見の方や家庭的養護という文脈で観ていない方のネタバレとなってしまうので、ここでは主人公である杏奈の成長の物語であることを伝え、もう一度本作を観てもらえるよう誘うことを願いながら、解説的なことを書いてみたいと思う。

アニメーションという魔法のなかで

映画版『思い出のマーニー』は、原作小説の骨格をほぼ忠実に活かしつつ、舞台を北海道に設定している。もしこの作品が実写映画として、重要な舞台となる『湿っち屋敷』がVFXで再現されたり、偶然にも見つかった屋敷がロケ先として活用されたりしたとしても、どこか嘘っぽさを感じる世界になっていたはずであり、物語としての求心力は失われてしまったのではないかと思う。

アニメーションによって描かれた世界であるが故に、観客の私たちは、このような地が北海道にあるに違いないという魔法に気持ちよくかかることができる。そして、その魔法のなかで、私たちは杏奈という一人の少女のそばで、彼女の一つの成長を見届けることになる。それが映画版『思い出のマーニー』の世界である。

物語の始まりから、主人公である杏奈は怒っている。自分は世界の〈外〉にいるのだと猛烈に怒っている。表面的には「いい子」と映るだけに、鉛筆の芯を折るほどの怒りに襲われていることを、杏奈のそばにいる人たちは気付かない。

杏奈は他方で喘息に苦しんでいる。かかりつけ医が、医学的には何の問題もないとコメントする前から、これは医学的な症状ではなく、精神的なサインであることを観客たちは受け取ることになるだろう。

そして、杏奈は夏休みを利用して、『転地療養』へ向かう。その場所は、大岩のおじさんとおばさんと呼ばれる親族宅の家である。この家で振る舞われる食材の豊富さや、提供される食事の描写から、この家が、杏奈にとっての安全基地となることが暗示される。

安全基地を獲得した杏奈は、そこを拠点として冒険を始める。それは意識的というよりも無意識的な冒険と言えるかもしれない。そして、その冒険のなかで、マーニーという少女と出会うことになる。

ウィニコットの「一人でいられる能力」

杏奈とマーニーの関係性が、この物語の核心となるわけだが、杏奈はマーニーと結ばれることで、杏奈は自分が一人の人間であることを深く自覚し、自分の置かれている境涯を一つ肯定する。

そして、杏奈が自分自身の存在を肯定し始めたとき、マーニーとの関係にも終わりが訪れる。それは、子どもが親に絶対的に依存した後に、親をなかったことして、自立を果たすという逆説を思い出させる。そして、イギリスで活躍した小児科医であり、精神分析家でもあったドナルド・ウィニコットの次の言葉を思い出す。ウィニコットから紡がれる言葉は、子どもの世界を理解するための示唆に溢れている。

いろんな形の体験が一人でいられる能力の確立に寄与するけれども基本的なものはひとつである。その十分な体験がない限り一人でいられる能力はでてこない。そのひとりというのは、幼児または小さな子どものとき、母親と一緒にいて一人であったという体験である。つまり一人でいられる能力の基盤は逆説である。それは誰か他の人が一緒にいるときにもった“一人でいる”To Be Aloneという体験なのである。
D・W・ウィニコット『一人でいられる能力』より)

物語の終わりに、冒頭の杏奈の存在論的な怒りの意味を観客は理解することになる。そして、観客である私たちは、杏奈にとってマーニーはどんな存在であったのかを作品が終わった後も考え続けることになる。

私たちの前に姿を現すかもしれない、実在する杏奈のような子どもたちに接するとき、私たちは『思い出のマーニー』の登場人物たちのように、かれらの成長を見守ることができるだろうか。映画のラストシーンでの杏奈の行動、その後の生活は、観客である私たちの生活とどこかでつながっていくのだと思う。

text/SocialWorker T